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| 2005/3/25 観光史跡「高山樗牛記念碑」他の移設 |
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平成17年3月25日
平塚市
担当 商業観光課観光担当 二見
電話 0463−35−8107(商業観光課)
観光史跡「高山樗牛記念碑」他の移設
旧杏雲堂平塚病院敷地内(袖ヶ浜1−12)に設置してあった「高山樗牛(たかやまちょぎゅう)記念碑」(高さ120cm・幅290cm・厚さ50cm:碑石は京都産鞍馬石)について、当該敷地が売却されたことに伴い、県道平塚停車場袖ヶ浜線の東側にある高浜公園内(高浜台1−17)に同記念碑を移設した。なお、同時に有島武郎夫妻記念標柱も同地に移設した。
総移設費は約65万円。
(資料:「平塚市郷土誌事典」を元に要約)
高山樗牛(たかやま ちょぎゅう)
明治4年(1871)〜明治35年(1902)
文士。明治の文壇に輝かしい足跡を残した高山林次郎は、山形県鶴岡の斎藤親信の次男、のち伯父高山久平の養子となった。明治26年(1893)東京帝国大学哲学科に入学し、その年「滝口入道」を発表し著名となる。卒業後、第二高等学校教授、雑誌「太陽」の主幹等になる。33年(1900)文部省より留学を命ぜられたが渡欧前に発病、平塚海岸杏雲堂病院で診療を受け転地療養の末、同病室で病没。32歳。
高山樗牛の碑
碑面の「Hope(ホープ)」は、明治35年(1902)10月、杏雲堂病院に入院した樗牛が、柿崎嘲風から贈られたG.F.Wattsの作画「希望」の題名である。樗牛はこれを病室に飾り親しんでいたが、その年12月24日、32歳で病没。
有島武郎(ありしま たけお)
明治11年(1878)〜大正12年(1923)
東京小石川区水道町に生まれ、明治20年(1887)学習院に学び、大正天皇の学友となる。28年(1895)「斬魔剣」を発表、学習院中等科卒業後札幌農学校を経て米国に留学、帰国後札幌農科大学予科教授となる。42年(1909)神尾安子と結婚したが、夫人は健康がすぐれず、平塚海岸杏雲堂病院特別病棟で療養。夫人の死後、作家生活に入る。
有島安子(ありしま やすこ)
明治21年(1888)〜大正5年(1916)
神尾光臣の二女。明治42年(1909)3月有島武郎と結婚した。武郎32歳、安子22歳。安子は三男誕生後、健康にすぐれず平塚海岸杏雲堂病院特別病棟で療養した。武郎はしばしばこれを見舞って慰めと励ましを与えていたことが、日記・感想・書簡をはじめ諸作品に書かれている。特に日記の中で病棟をスケッチして「悲劇の舞台」の文字を添えている。大正5年(1916)8月2日、武郎に決別の歌を残して没した。
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