相模人形芝居,
Sagami Ningyo Shibai,
Sagami Ningyo Šibai

最終更新日 : 2022年3月22日

相模人形芝居の表紙を飾る写真。「はですがたおんなまいぎぬ」から「さかやのだん」公演中の一場面標題「相模人形芝居」の文字

相模人形芝居について

 相模国(さがみのくに)には、江戸時代から明治時代にかけて15箇所に人形芝居がありました。そして、現在でも引き継がれているのが、厚木市の林座(はやしざ)長谷座(はせざ)と、小田原市の下中座(しもなかざ)、平塚市の前鳥座(さきとりざ)、南足柄市の足柄座(あしがらざ)の5座です。
 江戸時代の終わりごろには、人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)は「人形芝居」として日本各地に広まり、相模人形芝居も地域の娯楽(ごらく)などで親しまれていました。このような理由から、5座は国や県から「無形民俗文化財(むけいみんぞくぶんかざい)」の指定を受けています。
 相模人形芝居の特徴は、1体の人形を主遣い(おもづかい)左遣い(ひだりづかい)足遣い(あしづかい)の3人が協力して操る「3人遣い」と、人形の(かしら)を操作するときに、鉄砲(てっぽう)を構えたような格好になる「鉄砲差し(てっぽうざし)」という操法にあります。 

各座説明

長谷座(はせざ)

 厚木市長谷地区に伝わる人形芝居。今から300年前に淡路の人形遣いが伝え始まったとロ伝されている。これを裏付ける淡路系の式三番叟の尉面(しきさんばそうのじょうめん)が地元の堰神社(せぎじんじゃ)に納められている。幕末から明治になると、大坂や江戸の人形遣いを師匠として指導を仰ぎ、 戦後も地域の行事や市外で盛んに上演された。その後、座員の減少など存続の危機を乗り越えながら、地元、市の協力のもと伝統を大切にして、現在15名の座員で活動している。長谷座には現在、 56個の(かしら)が伝わっているほか、 座員が作ったものも多数保有している。

厚木市長谷地区に伝わる人形芝居、長谷座公演中の一場面の写真。

前鳥座(さきとりざ)

 平塚市四之宮地区に伝わる人形芝居。江戸時代中頃に始まったと言われ、「四之宮の人形」と呼ばれていた。明治42年の大火でカシラや衣装等を多数焼失するが、 関係者は生活を犠牲にして大阪に出向き、 人形を買い求めたという。一時中断を余儀なくされた時期もあったが、昭和27年に復興し、 四之宮の氏神である前鳥神社にちなみ前鳥座と命名された。前鳥座には現在、 50個の(かしら)が伝わっている。

平塚市四之宮地区に伝わる人形芝居、前鳥座公演中の一場面の写真。

足柄座(あしがらざ)

 南足柄市班目地区(まだらめちく)に伝わる人形芝居。江戸時代の中頃に阿波の人形遣いによって伝えられ、「福沢村(ふくざわむら)班目人形芝居」と呼ばれた。昭和に入り一時中断した時期があったが、有志により再興、 班目人形芝居保存会を経て足柄座となった。足柄座は現在、66個の(かしら)を保有しており、また、その中には銘のある資料的価値の高いものもある。

南足柄市班目地区に伝わる人形芝居、足柄座公演中の一場面の写真。

下中座(しもなかざ)

 小田原市小竹地区に伝わる人形芝居。江戸時代の中頃、 関西方面から江戸を目指して来た人形遣いの一行が伝えたとされ、「小竹の人形」と呼ばれた。江戸時代の天保改革の諸芸禁止では、 幕府の目を逃れて横穴古墳の中で稽古をしたとも言われている。下中座は現在、92個の(かしら)を保有している。

小田原市小竹地区に伝わる人形芝居、下中座公演中の一場面の写真。

林座(はやしざ)

 厚木市林地区に伝わる人形芝居。始まりは定かではないが、 今からおよそ280年前と言われている。江戸時代後期には、 大坂の有名な人形遣い吉田朝右衛門を師匠に迎え、 明冶時代までその指導を仰いでいたので、 「林の人形」、「吉田連」 とも呼ばれ知られていた。林座には現在、51個の(かしら)が伝わっている。

厚木市林地区に伝わる人形芝居、林座公演中の一場面の写真。

あらすじ

傾城阿波の鳴門~順礼歌の段~
(けいせいあわのなると~じゅんれいうたのだん~)

 十郎兵衛(じゅうろうべえ)は、盗まれた(ぬすまれた)主君の刀を探すため、妻のお弓と共に大坂に出て、盗賊(とうぞく)となって、暮らしている。そこへ届いた内通の手紙により、刀を探すための数々の悪事が露見して罪科が降りかかっていることを知る。
 そこへやってきたのは順礼の娘。はるばる阿波から両親を探しにやってきたと語る娘の身の上話に、お弓は、この順礼の娘こそ故郷に残してきた我が子おつるであることを知る。切々と両親への思慕を訴えるおつるに、母と名乗り今すぐ抱きしめたい思いに駆られながらも、盗賊の罪が娘に及ぶ事を恐れたお弓は親子の名乗りをする事ができない。心を鬼にして国へ帰るよう諭し、泣く泣くおつるを追い返す。
 戸外からは、おつるの歌う順礼歌がきこえてくる。それもしだいに遠のいていくと、お弓はこらえきれずにその場に泣き崩れるが、今別れてはもう会うことは叶わないと思い返して、おつるの後を追いかける。

「けいせんあわのなると」から「じゅんれいうたのだん」の一場面の写真。

艶容女舞衣~酒屋の段~
(はですがたおんなまいぎぬ~さかやのだん~)

 元禄八年(1695年)に大坂千日前で実際にあった心中事件を芝居に仕立てた話である。
 酒屋の茜屋半兵衛(あかねやはんべえ)の息子半七(はんしち)は、お園(おその)と結婚した後も、以前から付き合いのあった女芸人三勝(おんなげいにんさんかつ)との関係を続け、娘までもうけた。
 妻のお園には、見向きもしなかった状態が三年続き、腹を立てたお園の父宗岸(そうがん)は無理やりお園を実家に連れ戻し、半七は勘当(かんどう)された。
 その翌年の正月のこと、 日暮れ時に宗岸がお園を連れて半兵衛を訪ねてくる。
 実家へ戻っても半七との別れを悲しみ続けるお園を、なんとかもとの通りの嫁にしてもらいたいと詫びに来たのだった。しかし、半兵衛はその宗岸の申し出を頑として承知しない。実は半七は一昨日の夕方、人を殺していて、いまお園と復縁してはお園に迷惑がかかると考えたのである。
 代官所(だいかんしょ)に呼ばれた半兵衛は、少しでも半七の命をかばうために半七の代わりに縄を受けてきていた。二人の父親の愛情に、半兵衛の女房もお園も涙をこぼし、また当の父親たちも声をあげて泣くのだった。善後策を練ろうと奥の間に三人が入っていく。
 一人残ったお園は、自分さえいなければ、そして半七が三勝と一緒になっていたら、こんなことにはならなかったのにと夫を慕い、思い沈むのであった。

「はですがたおんなまいぎぬ」から「さかやのだん」の一場面の写真。

生写朝顔話~宿屋から大井川の段~
(しょううつしあさがおばなし~やどやからおおいがわのだん~)

 秋月弓之助(あきづきゆみゆきすけ)の娘深雪(みゆき)は、宇治の蛍狩りで宮城阿曽次郎(みやぎあそじろう)という若侍と恋仲になったが、はかなく別れ別れに。帰郷すると、駒沢次郎左衛門(こまざわじろうざえもん)との間に縁談が起こった。
その駒沢こそ恋仲になった阿曽次郎だったが、それとは知らぬ深雪は阿曽次郎への操を立てて家出をし、諸国を流浪するうち盲目となってしまう。その後は朝顔と名乗り、島田宿の戒屋徳右衛門(かいやとくえもん)の元で阿曽次郎が蛍狩りの時に書いてくれた「露の干ぬ間」の唄を、琴を弾きつつ唄って生計を立てていた。
 ある日のこと、駒沢は岩代多喜太(いわしろたきた)と共に宿を訪れる。そこで「露の干ぬ間」を唄う盲目の女がいることを知り呼んでもらうが、その女は変わり果てた深雪だった。駒沢は自分が阿曽次郎だと名乗ろうとするが、岩代の手前それもできず、深雪もどこかで聞いたような声と思いつつ心を残しながら帰っていく。駒沢は徳右衛門に「一輪の朝顔」を描いた扇と秘宝の目薬などを託し、宿を後にする。行き違いに戻ってきた深雪は、駒沢が阿曽次郎であったことを知り、盲目の足元も危うく後を追っていく。ようやく大井川までたどりつくが、駒沢の一行は向こう岸に渡った後であり、しかも、にわかの大水で川止めになってしまい泣きじゃくる。やっと恋こがれる人に逢えたのに悟れなかった盲目の悲しさ、天を仰いで我が身の不運を恨み嘆くのであった。

「しょううつしあさがおばなし」から「やどやからおおいがわのだん」の一場面の写真。

伽羅先代萩~政岡忠義の段~
(めいぼくせんだいはぎ~まさおかちゅうぎのだん~)

 奥州伊達藩(おうしゅうだてはん)の藩主義綱(よしつな)は、吉原の傾城高尾におぼれ国政を顧みなかったため隠居させられ、幼君鶴喜代(つるきよ)が後を継いだが、この若君を亡き者にしてお家をのっとろうという企みがある。
 鶴喜代の乳母政岡(まさおか)は暗殺を心配して、男子を遠ざけ、食事も自ら炊いたご飯しか食べさせない。
 おりから、頼朝の使者として梶原の妻栄御前(さかえごぜん)が、怪しい菓子折りを持参する。頼朝公より賜った菓子、是非にでも食べさせると手詰りになったとき、奥の間から千松(せんまつ)が駆け出してきて菓子を食べた。すぐに苦しむ千松。悪人の一味八汐(やしお)は毒殺の企みを隠すために、千松を刺し殺す。
 しかし、若君大事の政岡は、わが子の死に涙ひとつ見せない。この様子を見た栄御前は、政岡が鶴喜代と千松を取り替えたと思い込み、悪人一味の企みを政岡に打ち明けて帰っていった。
 のちに一人残った政岡は、人目がなくなると、さすがに母親の心に返り、我が子の死骸を抱きしめて、深い嘆きに沈むのであった。

「めいぼくせんだいはぎ」から「まさおかちゅうぎのだん」の一場面の写真。

壺坂観音霊験記~沢市内の段~
(つぼさかかんのんれいげんき~さわいちうちのだん~)

 沢市とお里夫婦は、大和壺坂(やまとつぼさか)の土佐町で仲睦まじく暮らしている。沢市は目が不自由なので三味線の稽古をして、お里は縫い物などの賃仕事をしている。お里は沢市の目が治るようにと、結婚してから三年の間毎晩お参りに行っている。沢市はそのことに疑いを持ち問い詰めるが、お里から事情を聞いて、貞節な女房を疑い続けたことをわびる。二人は一緒にお参りしようと、壺坂寺へ出かける。

「つぼさかかんのんれいげんき」から「さわいちうちのだん」の一場面の写真。

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