令和6年度の遺跡発掘調査成果

本ページでは、令和6年度に平塚市内で行われた遺跡の発掘調査の成果を公開します。

令和6年度の発掘調査位置

  • 令和6年度調査地点位置図
以下、発掘調査された遺跡・地点ごとにその成果を紹介します。
本ページ作成にあたり、調査を担当された各民間調査組織の方々から写真提供・概要説明等御協力をいただきました。記して感謝申し上げます。

天神前遺跡第19地点

  • 天神前遺跡第19地点位置図
所在地  平塚市四之宮二丁目143番1他
調査主体 有限会社 吾妻考古学研究所
調査面積 1,122平方メートル
調査期間 令和6年1月11日~5月27日 
発見遺構 奈良・平安時代
      住居跡、掘立柱建物跡、
      溝状遺構、土坑、ピット、
      性格不明遺構
     近世
      溝状遺構
発見遺物 奈良・平安時代
      土師器、須恵器、灰釉陶器、
      石製品、瓦、鉄製品、鉄滓

 発見された遺構の内訳は、奈良・平安時代の住居跡43軒、掘立柱建物跡4棟、溝状遺構7条、土坑31基、ピット64本、性格不明遺構6基が検出されました。出土遺物の総量は、整理箱で約24箱分を数えます。
 以上のように、今回の発掘調査の主体となる時代は、奈良・平安時代となります。

調査成果

奈良・平安時代
 1号住居跡は、奈良・平安時代の竪穴住居跡で、北側にカマドを持ちます。カマドは、煙道と燃焼部の天井が失われてしまっていましたが、黄褐色の粘土を主な材料に用いて、切石や土器の破片を補強のための芯として使用していた痕跡が見て取れました。
 本遺跡は現代の建物などの造成によって遺構がこわされてしまった範囲が多く、この住居跡もカマドの周辺を除いてかなり失われてしまっていました。今回の調査では、このような住居跡が43軒見つかっています。

近世
 今回の調査では奈良・平安時代の遺構と重なり合う状態で、近世(江戸時代)の溝が14条発見されました。
 
 
  • 1号住居跡 1号住居跡(奈良・平安時代)
  • 1号住居跡カマド 1号住居跡カマド近影(奈良・平安時代)

まとめ

  • 調査区全景
 天神前遺跡は、砂州・砂丘第4列にあたり、奈良・平安時代の相模国府と推定される領域に含まれます。天神前遺跡は、これまでに18度の発掘調査が行われ、奈良・平安時代の住居跡や掘立柱建物跡が多数検出されるとともに、多量の鉄滓が見つかっています。鉄滓は、鉄製の道具を作る際に出る鉄のかすです。このことから、天神前遺跡周辺は、鉄製品生産を担っていたエリアと見られています。こうした多量に鉄滓が出土する様相は、天神前遺跡の西側に隣接する神明久保遺跡でも同様にみられます。
 ただし、今回の調査では、鉄滓はさほど出土していません。一方で、今回の調査区の南側で行われた発掘調査では鉄滓が多量に出土しています。このように天神前遺跡の中でも、鉄生産に濃淡のあったことがわかってきました。

梶谷原A遺跡第5地点

  • 梶谷原A遺跡第5地点位置図
所在地  平塚市西真土一丁目146番1、146番2
調査主体 有限会社 吾妻考古学研究所
調査面積 約540平方メートル
調査期間 令和6年6月24日~9月7日 
発見遺構 古墳時代後期
      溝状遺構
     奈良・平安時代
      住居跡、道路状遺構、
      溝状遺構、土坑、ピット、
     近世
      溝状遺構、土坑
発見遺物 古墳時代後期~平安時代
      土師器、須恵器
     奈良・平安時代
      灰釉陶器、鉄製品、瓦
     近世
      磁器

 発見された遺構の内訳は、古墳時代後期の溝状遺構3条、奈良・平安時代の住居跡3軒、道路状遺構1条、溝状遺構19条、土坑18基、ピット143本、近世の溝状遺構6条、土坑2基が検出されました。出土遺物の総量は、整理箱で約3箱分を数えます。
 以上のように、今回の発掘調査の主体となる時代は、奈良・平安時代となります。

調査成果

古墳時代後期
 古墳時代後期は、土地利用の痕跡はさほど見られませんでしたが、溝状遺構が3条見つかりました。

奈良・平安時代
 調査区の南側で、奈良・平安時代~中世の大型の道路遺構が見つかりました。残念ながら南側が調査区外になるため本来の規模がわかりませんでしたが、北側に2条の側溝を持ち、側溝を除く部分の幅が少なくとも4m以上あり、道路部分が強く硬化していました。過去の調査で、本遺跡の北西側と南東側にこの道路の延長とみられる大型道路遺構が見つかっており、古代~中世の東海道だった可能性が有力視されています。
 奈良・平安時代の竪穴住居跡は、3軒発見されました。これらは南側に走る大型道路状遺構と同じ方向軸を示しており、道路を意識した配置をとっていたものと思われます。

 
  • 大型道路状遺構
  • 1号住居跡 1号住居跡全景

まとめ

  • 調査区全景
 梶谷原A遺跡は、砂州・砂丘第3列に位置し、奈良・平安時代の相模国府と推定される領域の北西端にあたります。今回の調査では、官道と推定される大型道路状遺構が検出されました。この道路状遺構は、国府の領域内を東西に走っていることがいくつかの発掘調査で明らかとなっていますが、梶谷原A遺跡の南側に隣接する構之内遺跡の中で北西に向かって斜めに折れます。北西方向に斜めに折れた先は、東中原E遺跡で見つかっていますが、今回の発掘調査ではその間を補うものとなりました。
 今回の調査では、北に向かって低くなる旧地形が確認されました。土地の低いあたりには住居跡は分布しておらず、わずかな距離でも土地利用の在り方が異なっていたことがわかります。また、発見された住居の数が比較的少ないことは、官道に近い立地とも関係があるかもしれません。官道周辺の土地利用の在り方は、梶谷原A遺跡だけでなく周辺の遺跡の発掘調査も含めて考えていく必要があります。
 

新町遺跡第14地点

  • 新町遺跡第14地点位置図
所在地  平塚市新町622-1
調査主体 大成文化財株式会社
調査面積 約481.6平方メートル
調査期間 令和6年7月8日~11月15日 
発見遺構 奈良・平安時代
      竪穴建物跡、土坑、溝状
      遺構、ピット、不明遺構
     近世以降
      土坑、溝状遺構
発見遺物 奈良・平安時代
      土師器、須恵器、土製品、
      石製品
     中・近世
      陶器、磁器

 発見された遺構の内訳は、奈良・平安時代の竪穴建物跡14棟、土坑4基、溝状遺構18条、不明遺構7基、ピット25本。近世以降では、土坑1基、溝状遺構2条が検出されました。出土遺物の総量は、整理箱で約15箱分を数えます。
 以上のように、今回の発掘調査の主体となる時代は、奈良・平安時代となります。

調査成果

奈良・平安時代
 今回の発掘調査で見つかった竪穴建物跡14棟のうち、6棟でカマドの痕跡が確認されました。その中でもH10号竪穴建物跡のカマドには、土師器の甕を連結させて造られた煙道(煙を建物の外に出す煙突のような穴)が見つかりました。ここで見つかった5つの甕は、いずれも煙突状に連結されるため、底が打ち欠かれ筒状に整えられていました。5つのうち、カマド焚口側の4つは同じ向きで建物の内側に向かって入れ子状に連結され、煙出し口側の1つは口を外に向ける形で接続されていました。H10号竪穴建物跡は、出土した土器から、奈良時代(8世紀中葉)の所産と考えられます。
また、H13号竪穴建物跡は、平面が2.82m×2.22mと小規模な長方形の建物跡で、床面付近から土師器坏・甕が残りの良い状態で20個体以上出土しました。出土遺物から、奈良時代(8世紀第3四半期)の所産と考えられます。

近世以降
 宝永火山灰を多量に含む土で埋まった遺構を、近世以降の所産として発掘調査されました。発見されたのは、土坑と溝状遺構で、覆土中からは重複する奈良・平安時代の遺構からの混入とみられる同時代の土師器類が多く見つかりました。溝状遺構の一つからは、近世以降の陶磁器類がごくわずかに見つかっています。
  • H10号竪穴建物跡カマド
  • H13号竪穴建物跡遺物出土状況

まとめ

  • 調査区全景
 新町遺跡は、砂州・砂丘第3~4列にまたがります。これまでの発掘調査で、奈良・平安時代、砂州・砂丘の高まりとその間の窪地(砂丘間凹地)では、土地の使われ方が大きく異なることがわかってきました。砂州・砂丘上では竪穴建物跡などを中心に居住域が広がり、緩斜面~砂丘間凹地には溝状遺構が多量に構築されるなど生産域が展開します。
 今回の調査では、砂州・砂丘上において、奈良・平安時代の竪穴建物跡が複数構築される状況が明らかとなり、これまでの発掘調査を補完する成果を得ることができました。
 新町遺跡の通りを挟んで東側には、相模国府と推定される領域が広がります。新町遺跡の東隣に展開する構之内遺跡の中において、東西方向に走る官道とみられる道路が、新町遺跡を避ける形で北西方向に折れることがわかっています。新町遺跡は、官道沿いに展開する建物群とその周辺に設けられた生産域という比較的広い視野で古代の景観を知ることができる貴重な遺跡です。一方で、生産域の実態や建物群の性格など、はっきりとわからないことが多いのも実情で、引き続きより詳細な検討が必要です。

大会原遺跡第9地点

  • 大会原遺跡第9地点位置図
所在地  平塚市東真土二丁目205-1、
     204-3、206-1、207-1
調査主体 武相文化財研究所
調査面積 約583m2
調査期間 令和6年7月22日~12月17日 
発見遺構 奈良・平安時代~中世
      井戸跡、溝状遺構、土坑、
      ピット、性格不明遺構
     中世 
      ピット
     近世
      畝状遺構、溝状遺構、土坑、
      性格不明遺構
発見遺物 奈良・平安時代
      土師器、須恵器、土製品、瓦、骨
     中世
      陶器、土器、石器、石製品、鉄製品、銭貨
     近世
      磁器

 発見された遺構の内訳は、奈良・平安時代~中世の井戸跡12基、溝状遺構18条、土坑49基、ピット26本、性格不明遺構1基。中世以降では、畝状遺構、溝状遺構1条、土坑2基、ピット18本が検出されました。出土遺物の総量は、整理箱で約25箱分を数えます。
 以上のように、今回の発掘調査の主体となる時代は、奈良・平安時代~中世となります。

調査成果

奈良・平安時代~中世
 今回の発掘調査では、奈良・平安時代~中世の井戸跡が多く見つかりました。一方で、建物跡は見つかっておらず、ここでの土地利用が居住目的ではなかったことがわかります。18条検出された溝状遺構は、こうした生産域での導水、区画、畝などを目的に構築されたものと考えられます。
  • 溝状遺構と井戸跡
  • 井戸跡の裁ち割状況

まとめ

  • 調査区全景
 大会原遺跡は、砂州・砂丘第3列の北側にあたり、相模国府と推定される領域に含まれます。今回の調査区の南東側に広がる、六ノ域遺跡、坪ノ内遺跡などでは、相模国府に関連する多数の遺構が見つかっています。
 今回の調査から、地盤図では砂州・砂丘となっていますが、実際には河川により形成された自然堤防に近い旧地形であることがわかりました。大会原遺跡は、砂州・砂丘、砂丘間凹地、旧河道、自然堤防が複雑に入り混じる旧地形であることがわかっています。今回の調査区の北東側には、現在でもむずかし堀と呼ばれる水路が走っています。第3砂丘列と第2砂丘列の間の凹地は、地盤図上旧河道に接続しています。数ある砂丘間凹地の中で、この凹地には自然堤防が伴っており、凹地というよりも河道に近い景観を呈していた可能性があります。
 今回の調査成果は、こうした旧地形の情報を補完するとともに、北側に展開する水辺へと至る自然堤防において、井戸跡や溝状遺構を多数構築し生産域として利用していた奈良・平安時代~中世の景観の一端を示しています。ただし、これらの遺構は、現時点では奈良・平安時代~中世という比較的長い時間で捉えられています。今後の報告に向け、こうした情報が整理され、より仔細に明らかとなっていくことが期待されます。

新町遺跡第12地点B地区

  • 新町遺跡第12地点B地区位置図
所在地  平塚市新町622-1外26筆
調査主体 株式会社 玉川文化財研究所
調査面積 約128.3m2
調査期間 令和6年8月19日~10月11日 
発見遺構 奈良・平安時代
      竪穴建物跡、土坑、
      溝状遺構、ピット
     近世以降
      溝状遺構、ピット
発見遺物 奈良・平安時代
      土師器、須恵器、灰釉陶器
     近世以降
      陶磁器

 発見された遺構の内訳は、奈良・平安時代の竪穴状遺構1軒、土坑3基、溝状遺構12条、ピット39本。近世以降では、溝状遺構4条、ピット1本が検出されました。出土遺物は、整理箱で約1箱分を数えます。
 今回の発掘調査の主体となる時代は、奈良・平安時代となります。

調査成果

奈良・平安時代
 今回の調査は、面積の制約から、平面的に多くの遺構を検出するには至っていません。しかし、竪穴状遺構が検出されたことや、溝状遺構が比較的多数検出されたことから、奈良・平安時代に多くの活動が行われたことがわかります。
  • 土坑
  • 調査区(5区)全景

まとめ

  • 調査区全景(3~5区)
 新町遺跡は、砂州・砂丘第3~4列にまたがります。これまでの発掘調査で、奈良・平安時代、砂州・砂丘の高まりとその間の窪地(砂丘間凹地)では、土地の使われ方が大きく異なることがわかってきました。砂州・砂丘上では竪穴建物跡などを中心に居住域が広がり、緩斜面~砂丘間凹地には溝状遺構が多量に構築されるなど生産域が展開します。
 今回の調査に関連する第12地点A地区では、砂州・砂丘上において、古墳時代後期の住居跡が1軒、奈良・平安時代の竪穴状遺構が2軒、同時代の畝とみられる溝状遺構が多数分布することがわかっており、B地区もまたこうした遺構分布の一端を示しているものと考えられます。奈良・平安時代に人々の土地利用が盛んに行われたことは明らかですが、一方で建物の構築は疎らであり、先述した奈良・平安時代の砂州・砂丘上には居住域が広がるといった新町遺跡全体の様相とは少し異なります。第12地点の両側には、第1地点と第3地点があり、いずれも多数の竪穴建物跡が検出されています。第12地点はその間に挟まれた空閑地と言えます。この空閑地がどのような意味を持っていたのか、奈良・平安時代の各時期における建物跡の分布の偏りや官道脇の景観の変遷などを考えていく上で興味深い成果と言えます。

【報告書】
第一三共株式会社・玉川文化財研究所 2025 『神奈川県平塚市 新町遺跡第12地点 発掘調査報告書』

宿仲遺跡第1地点

  • 宿仲遺跡第1地点位置図
所在地  平塚市大神六丁目2020番
     1、2020番2の各一部
調査主体 平塚市教育委員会
調査面積 約20m2
調査期間 令和6年12月2日~12月16日 
発見遺構 古墳時代~奈良・平安時代
      溝状遺構、ピット、不明遺構
     中世以降
      溝状遺構、ピット
発見遺物 弥生時代
      土器、
     古墳時代~奈良・平安時代
      土師器
     中・近世
      陶磁器
     奈良時代~近世
      金属製品

調査成果

 発見された遺構の内訳は、古墳時代~奈良・平安時代の溝状遺構1条、不明遺構7基、ピット1本。中世以降では、溝状遺構1条、ピット1本が検出されました。出土遺物は、整理箱で約1箱分を数えます。
 溝状遺構は、各時代ともに南北方向の流路をとっていました。
  • 溝状遺構
  • ピット

まとめ

  • 調査区全景
 宿仲遺跡での発掘調査は、今回が初めてであり、調査成果から古墳時代~奈良・平安時代と中世以降に土地利用がなされていたことが確認されました。宿仲遺跡周辺の土地形状は、相模川が形成した自然堤防上の微高地であり、ツインシティができる以前は、北西側に田んぼが広がっていました。
 調査成果でも触れたように、古墳時代~奈良・平安時代の溝状遺構1条と中世以降の溝状遺構1条がいずれも南北方向の流路をとっていました。宿仲遺跡の北側には低地が広がり、南側には道路を挟んで遠蔵遺跡が隣接しています。このことから、各時代の溝状遺構は遠蔵遺跡側にも延びていたものと考えられます。
 遠蔵遺跡では、これまでに8度の発掘調査が行われており、古墳時代中期~奈良・平安時代の居住域が発見されています。中世においても繰り返し井戸が掘られるなど、人々の生活が脈々と続いていたことがわかります。宿仲遺跡や遠蔵遺跡の広がる土地は、字名の「大神」から、古代における相模国大住郡「大上」郷に比定されており、奈良・平安時代の土地利用のあり方について、今後の動向が注目されます。
 遠蔵遺跡における遺構密度と比較すると、宿仲遺跡第1地点の遺構分布はやや希薄になる傾向が見て取れます。見つかったピットが柱穴だとすると、小規模な掘立柱建物が建てられていた可能性はありますが、その密度から集住域とは言えず、集落と田んぼなどの生産域との境界付近であったものと思われます。河川が作り出した自然堤防という土地の利用のあり方や、周囲に広がる豊富な水資源の利用など、宿仲遺跡第1地点の成果は、当時の景観の一端を示していると言えます。

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